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AIで教育は崩壊し再興する

2025年12月1日

こんにちは、本多です。

前回の記事では、現状の生成AIに対する文部科学省の対応と、実際の学校現場や教員の現状について解説しました。また最後にはUNESCOの論考に触れ、無批判に生成AIを使用するべきではないとの結論で終わりました。

この論考、「AI and the Future of Education: Disruptions, dilemmas and directions」は、翻訳すると「AIと教育の未来:崩壊、ジレンマ、そして方向性」という題であり、2025年9月に頒布されました[1]。

これは総勢33名の識者による、21の論考をまとめたものです。

この記事では、サブタイトルにある「崩壊」「ジレンマ」「方向性」の3点に絞り、解説していきたいと思います。

(以降「論考」という言葉はこの論考を指します。)


1.「崩壊」~生成AIの登場で教育はどうなったか~

AIが人間の仕事を奪うのではないか?という議論が、よくテレビで話題になっていたことがあります。

2013年、オックスフォード大学の論文「The Future of Employment: How susceptible are jobs to computerisation?(雇用の未来: 仕事はコンピュータ化にどの程度影響を受けるのか?)」で、技術発展により雇用がAIに代替されると予測されたことは、AIが広く認知されるきっかけとなりました[2]。

生成AIの登場によって、世界は大きく変わりました。生成AIを利活用することで「知らない」「できない」ことが、「知っている」「できる」ことに変化するからです。この変化は、活版印刷・自動車・コンピュータの普及と同じかそれ以上の世界の変革であり、既存の価値観の崩壊なのかもしれません。

過去の教育と知性

論考の中でBing Songは、これまでの教育は「知っている・できる=知性」とし、その習得を目指していたと述べています。テスト・宿題・レポートなどがその子の知性を測るために利用され、評価にも用いられていました。しかし生成AIで代替できるようになった今、この評価方法は本当に正しいと言えるのでしょうか。

論考の中でMike PerkinsとJasper Roeは、以下2点を指摘しています。

・生成AIがテストや試験に悪用されることは止められない。

・生成AIは、知性の価値や知性を測定するという行為を無意味にしつつある

そういった意味では、既に生成AIによって教育は「破壊的に」変化しており、既存の知性を重視した教育を考え直す必要があるのかもしれません。


2.「ジレンマ」~生成AIを活用する上でどのような問題があるのか~

ジレンマとは、「ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態」を指します[3]。

教育において「AIを活用しない」「活用する」、どちらを選んでも不利益が生じる可能性があります。論考では、主に以下の3つのジレンマが議論されています。

①学習の個性化(パーソナライゼーション)のジレンマ

ご存じの通り、生成AIは我々の様々な質問に柔軟に答えてくれます。このことは学習を高度に個性化するポテンシャルがあるということです。ここでの個性化とは、1人1人の生徒の興味・関心に応じ、異なる目標に向けて学習を深め、広げることを意味します。

Andreas Hornは、生成AIは以下の3つを行うことができると述べています。

・「動的な練習とペース設定」

・「タイムリーで的を絞ったフィードバック」

・「多様なニーズと言語へのサポート」

このことは論考の中で、既存の個性化(パーソナライゼーション)を超える、「超パーソナライゼーション」と言われています。

一見すると素晴らしいことのように思えますが、これにはリスクが存在しています。

個性化のリスク

まず、生成AIによる過度な個性化は、生成AIへの依存を強めます。その結果、自律性を損ねたり、エコーチェンバーに閉じ込められてしまう可能性があります。

よって、間違った内容や偏った思想を訂正されないまま、学習してしまう可能性を拭いきれません。

また、学習とはそもそも1人で行うわけではないことに目を向ける必要があります。

Abeba Birhaneは「知識とは、個人が所有し継承する離散的なものではなく、本質的に動的で進化する営みである。」と述べており、学習は先生と生徒の、または生徒同士の相互作用によって行われることを再認識する必要があります。

②効率性のジレンマ

上記の個性化でも前述したように、生成AIを教育に取り入れることで、タイムリーで的を絞ったフィードバックが即座にできるなどの学習の効率化が見込めます。

一方、論考の冒頭では「AIと教育の未来に関する多くの国際的な議論は、しばしば商業的に強力な主体によって、スピード、規模、最適化という観点で語られている。」と書かれています。

教育は商業ではありません。効率性が本当に正解かどうかはよく考える必要があります。

確かに効率性は、多くの場面では求められるべきものです。私たちが電卓やExcelを使うのは、「手計算でもできるが、より簡単に素早く成果物を出せるから」のはずです。実務を行う上で、より効率的な方法を模索することは基本的に正しい事であると考えます。

しかし、教育の目標とは、何かしらの成果物を作ることではありません。子どもを教え育てることが教育であり、その副産物として成果があるにすぎないからです。効率を求めるあまりに、その過程にある学びを見落としてはいないか注意する必要があります。

③公平性のジレンマ

先生が足りなかったり、先生の力量不足があったりといったことが教育においては往々にして起こり得ます。上記の個別化によって、全ての生徒は公平に生成AIの恩恵を受け、公平な教育を受けられるようになるかもしれません。しかし様々なスケールで、いまだ公平とは言い難い現状が存在しており、これはさらなる格差を広げるかもしれません。

国家間格差:そもそも世界の人口の3分の1はオフラインであると言われています。これは国ごとの通信設備の差によるものです。よって物理的に生成AIを使うことのできない子どもが存在しています。

経済的格差:経済力による通信設備の差に加え、有料版の生成AIへのアクセス権など、同じ国であったとしても経済力が教育格差になってしまいます。

生成AIの偏り:全ての生成AIはそのデータ元や開発の関係上、データの性質や傾向が欧米や左翼に偏っています。人種差別などのステレオタイプについても学習してしまっている可能性が高いです。

このような状態で生成AIを教育で使用するとどうなるのでしょうか。

[音楽教育における不公平]

例えば音楽教育を例にすると、生成AIを利用した音楽ツールの学習元は約94%以上がヨーロッパやアメリカの音楽です。

そういったAIツールを教育において使用した場合、生徒は自然と「西洋の音楽がデフォルトである」というバイアスを持つ可能性があります。

これはある意味で、伝統的な音楽が、西洋の企業によって文化的に侵略されていることに他ならないとしています[4]。

論考の中で、Mike PerkinsとJasper Roeは「教育機関におけるインフラの再分配、言語的公平性、包括的デザインの意図的な取り組みがなければ、格差を拡大する可能性がある。」と述べています。

重要なのは、生成AIが勝手に公平なツールになることは決してなく、教育機関側が意図を持って生成AIを公平にする必要があるということです。

また、仮に完全に公平なAIが配られたとしても、活用する側によって格差が拡大してしまう可能性があります。

例えば、「OOに関するレポートを書いてください」という課題を出したとしましょう。その時、ただAIに丸投げしてレポートをそのまま提出してしまうのと、AIと会話しながらレポートを作成していくのでは、同じAIを用いていても学びが大きく異なってしまいます。

学習に対して主体性があり、真摯に取り組めるかどうかによって学びは変わります。生成AIによってそれが顕著になってしまう恐れがあります。


3.「方向性」~どのような解決策があるのか~

では、生成AIを活用する上での悪い面を解決しつつ、より良い学習を行っていくためにはどのような方策が考えられるのでしょうか。3つの観点から検討します。

1.「生成AIの方向性」

今現在、一般的に用いられている多くの生成AIは、LLM(Large Language Model: 大規模言語モデル)という種類に属します。これは、ネット上のテキストを含め膨大なテキストデータを学習しており、それによって広範囲の要望や質問に答えることが可能となっています。

しかし、学習元のデータが膨大すぎるあまりに玉石混交のデータを学習し、前述した思想的不公正や「幻覚(ハルシネーション)」があることが問題視されています。

一方で、ある特定の限られたデータを学習して作成する言語モデルを、SLM(Small Language model:小規模言語モデル)と呼びます。

[SLMとその有用性]

SLMというモデルでは、生成AIの作成者側が学習させるデータを指定することで、上記の問題をある程度回避することも可能です。また、モデル自体の学習データを絞るSLMとは別に、利用時に「参照するデータ」を絞ることで同様の正確性を担保する方法もあります。その例として、NotebookLMというサービスがあります[5]。

これは、ユーザーが読み込ませた資料(教科書や信頼できるデータ)を根拠に応答するため、正確性が高いという特性があります。

TOZUKAらによる実験では、「当時最新のLLM,GPT-4o」と「NotebookLM」に、肺がんの進行度の測定を行わせました[6]。

結果、GPT-4oの正答率が39%だったのに対し、NotebookLMの正答率は86%と、2倍以上の精度となりました。これは「汎用的な巨大モデル」よりも「範囲を限定した特化型運用」の方が、特定のタスクにおいて正確性が高いことを示しています。

論考内でBill Copeらは、SLMに提供し学習させる資料について、精査されたコンテンツを優先することで、「幻覚(ハルシネーション)」を最小限に抑えられるとしています。教科書、副教材、辞書など、教育用に学習データを精選した言語モデルを作成することで、公平性や正確性が比較的高い状態で生成AIを活用することが可能です。

2.「活用場面の方向性」

公平性や正確性が担保されたからと言って、生成AIを無制限に使う理由にはなりません。生成AIが本来の学びを阻害しないようにするには、どのように活用していけばよいのでしょうか。その手がかりの1つとして、学習評価を見直すことが論考の中で挙げられています。

評価は学びと同様、公平である必要があります。生成AIが含まれた状態で評価が公平になることは、公平な学びが行われる上での第一歩です。

それを実現する上で、生成AIを使う人と使わない人が混在し、学びやアウトプットに差が出ることを防ぐ必要があります。例えばレポートの作成において、生成AIを活用した人としていない人では、良くも悪くも出力した結果に差が出ます。

また、授業内で生成AIを議論に参加させるかどうかでも学びの質は変わるでしょう。このような状況に対して、生成AIを使わせないように全生徒に対して目を光らせたり、使った生徒に罰を与え続けることは、現実的に不可能であり有意義とは言えません。

そうではなく、生成AIの使用をどの程度許容するか、またそれに合わせて評価をどのように変えるかが重要です。

GIGAスクール構想によって生徒1人1人にタブレットが配られた際、既存の目標がそれに伴って変化することがありました。自分の動きを後から動画で確認することができるようになった体育、タッチ操作で作曲できるようになった音楽、実験結果をリアルタイムで共有したりスライドで発表できるようになった理科など、よりクリティカルな活動になったことで、それに伴い目標、及び評価も変化しました。

同じように、生成AIの活用によって目標と評価が変化していくことは、ある意味で自然なことではないでしょうか。重要なのは、タブレットと同じく、活用するタイミングや基準を統一することです。

[AIASについて]

論考においては、AIASというものが取り上げられています[7]。これは、The AI Assessment Scale、学習においてAIを活用する上での評価尺度を示しています。生成AIが普及した世界で、妥当な評価を設計するための方法の1つです。

これは、生成AIの活用段階を5つに分けることで、それを前提とした評価であることを生徒に対して明示することができます。(特定の活用段階を除き、)生徒は生成AIを使わない選択肢も取れますが、示された段階まで使用が許可されている状態となります。

生成AIの活用段階は以下となります。

①AIは使用できない

②AIで構想・計画する

③AIとコラボする

④AIを全面活用する

⑤AIを応用する

これだけでは、②以降の違いが分かりにくいのではないかと思います。詳細は、以下に示す画像をご覧いただければと思います。

まずこういった指標があること自体、指導者が「生成AIを使うか使わないか」のような二者択一から、視野を広げることに役立ちます。

これらの項目を適切に設定するためには、学習方法についてより注意して考える必要があります。例えば持ち帰りの課題など、生徒が生成AIを使っているか分からない状態で評価項目を「①AIは使用できない」にしてしまうのは意味がありません。逆に、単純な計算問題などで③以降にしてしまうのも生徒の学びを損ねます。

指導者が、生成AIの特性と学習目標をリンクさせた上で、実際の活動にマッチする活用段階を考える必要があります。

当然ながら学習目標を考えた時、生成AIをこの場面では使わないという判断、つまり①の選択もあり得るでしょう。ただし、この検討を経て①が選ばれた時、今まで自動的に①が選ばれていた時とは学習目標への解像度が異なるはずです。

そういった経緯を踏まえて生成AIを使用しない決定をした旨を生徒に示すことで、指導者と生徒の双方が活動の教育的価値を理解した上で、活動を進められるのだと思います。

そして④⑤において、教育目標に基づいたどのような活動が展開できるか考えることは、教育にとって未知の領域です。その教科や単元の究極的な目標を鑑みて、どのような活動が考えられるのか。指導者側の教育目標や生成AIへの理解度が今、問われています。

3.「AI教育の方向性」

生成AIの公平性や教育においての適切な生成AIの活用については解決の糸口がつかめました。しかし、公平で適切な生成AIの活用だとしても、それを生徒が間違った使い方をしてしまっていては意味がありません。生徒自身が生成AIを適切に使えるようにしていくことも、同時に教育の責務であるでしょう。

Andreas Hornは論考の中で、3種類のAIを活用する上での必須能力(AIリテラシー)を育てることが必要であると述べています。それが概念的リテラシー、批判的リテラシー、創造的リテラシーの3つです。

概念的リテラシー」:生成AIの仕組みを平易な言葉で理解することを指します。どのようにして出力が生成されるのか、アルゴリズムとは何か、などを基本として知っておくことが重要です。

批判的リテラシー」:生成AIの仕組みを知った上で生成AIの振る舞いの不完全性を認識することを指します。バイアスや「幻覚(ハルシネーション)」を認識した上で、自身が正誤を判定する立場であることを自覚することが重要です。

創造的リテラシー」:生徒が生成AIを消費するのではなく、生成AIを活用して主体的に活動することを指します。適切なプロンプトの出し方、AIの倫理的な使用など、新たな創造のパートナーとして、生成AIを活用する方法を学ぶことが重要です。

これらのリテラシーの学習は、AIを活用していくことと並行して行われるべきであり、また発達段階に応じた適切な学習内容の展開が必要でしょう。


プログラミング教育を通して

こうして見てきた通り、生成AIは破壊的に教育を変化させました。それと共に、再度教育を捉えなおす機会となっています。生成AIには活用する上でジレンマが存在し、それは教育目標や指導者によって解決することが可能です。これは指導者側の責務であり、解決するためには様々なことを学び続ける必要があるでしょう。

最後にこれらを受け、プログラミング教育を例に生成AI活用について考えてみたいと思います。

まず、プログラミング教育の目標をおさらいします。

プログラミング教育の中心的な目標として、「プログラミング的思考」と呼ばれるものがあります。

これは、「自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力」とされています[8]。

この力は、プログラミングを学ぶ上での究極的な目標です。またプログラミングに限らず、人間に必要な普遍的な力とも言えます。

[デバッグに生成AIを使うべきか]

よく生成AIをプログラミングで活用するといった際、デバッグに活用することがよく例として挙げられます。これは、プログラミングでエラーが出た際に、どこが間違っているかを生成AIに聞くような作業です。しかし、これはプログラミング的試行に照らすと問題であることが分かります。

なぜなら「記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく」活動は、デバッグのプロセスそのものです。これがプログラミング的思考であるのであれば、生成AIで代替してしまうことは学びを阻害することとなります。

一方で、プログラミングで作りたい様々なアプリやゲームのアイデアを出したり、過去にあったゲームを調べたり、作品のアイデアを纏めていく活動は、プログラミング的思考ではありません。

むしろ、生成AIを利活用して取り組むことでより創造的に進められるところでしょう。また、そのように使う中で、AIリテラシーを育む活動を取り入れることも可能です。

まとめると、作品を作るにあたり、発想部分を生成AIで出してまとめ、プログラミング的思考の育成に関わるプログラミング部分は生徒が自分で行うということです。AIASで言えば②にあたることが分かります。

公平なAIを用いることはその前提としつつも、生成AIを無批判に使うのではなく、また拒絶するのでもなく、学習目標と生成AIを見比べ、柔軟に目標をコントロールすることで、より効率的かつ重要な箇所を見落とさない教育を行うことができるのではないでしょうか。

終わりに

今回は、「AIで教育は崩壊し再興する」について解説しました。

教育はいつの時代も、社会の変化によって変化を強制されてきました。この生成AIという変化はその中でも大きな変化であり、崩壊したと言えます。

しかしこの崩壊をチャンスと捉え、生成AIという新たな視点から教育を再考し、そして再興させることが重要です。

今回紹介した生成AI活用に関するジレンマは、けっして新しいものではなく、今まで教育が見て見ぬふりをしてきた問題と言っても過言ではありません。

むしろ生成AIによって顕在化し、また生成AIによって解決する可能性のある問題でもあるのです。

生成AIは、今後の教育の明暗を教えてはくれません。

教育は人と人との営みであり、人が教育を決定する必要があります。

生成AIという光に目をくらませ流れに身を任せるのではなく、我々がこれからどうするか。それにかかっているのです。

次回は、「ゲームとプログラミング学習の境界線」について解説していきます。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

(文責 本多)

引用文献

[1] UNESCO (2025) 「AI and the Future of Education: Disruptions, dilemmas and directions」. https://www.unesco.org/en/articles/ai-and-future-education-disruptions-dilemmas-and-directions

[2] Carl Benedikt Frey、Michael Osborne (2013) 「The Future of Employment: How susceptible are jobs to computerisation?」.  https://www.oxfordmartin.ox.ac.uk/publications/the-future-of-employment

[3] wikipedia 「ジレンマ」.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E

[4]Yasumasa Yamaguchi (2025)「Artificial intelligence in East Asian music education: cultural bias, digital colonialism, and pathways to inclusive practice」.https://link.springer.com/article/10.1007/s00146-025-02733-9

[5] google 「notebookLM」.https://notebooklm.google.com/

[6] RYOTA TOZUKA et al. (2025) 「Application of NotebookLM, a Large Language Model with Retrieval-Augmented Generation, for Lung Cancer Staging」.ttps://arxiv.org/pdf/2410.10869

[7] Mike Perkins et al. (2025) 「AI Assessment Scale (AIAS)」.https://aiassessmentscale.com/

[8] 文部科学省 (2020) 「小学校プログラミング教育の手引(第三版)」.https://www.mext.go.jp/content/20200218-mxt_jogai02-100003171_002.pdf